冒頭はアイオワ大学の作家ワークショップに招かれた話。世界中の(ほぼ非英語圏の)作家との交流を軽いエッセー風に読ませてやさしく導入していく。世界には様々な言語で小説や詩が書かれていることを著者はその交流の中で再認識する。さらに自分の民族の言葉で書いていない作家がいかに多く存在するか。
言語は強力な文学を背景に持つことで存在が確立される。日本文学は<世界の主要な文学>であることを他の国の作家から指摘されて著者はあらためてそれを自覚することになる。たしかに<世界の主要な文学>は言語の種類ほど多くはない。日本文学はその歴史においても源氏物語以来暗黒時代というものがなかったらしい。それほど各時代に文学が途切れることなく連綿と紡がれてきた。たしかに。言われてみればそうかもしれない。日本文学は明治期二葉亭四迷、夏目漱石以後と我々は思いがちだが世界の認識はそうではなかった。その言語が優れているかそうでないかは、それは主要な文学(国民文学)があるかどうか、にかかっている。
日本は<読み言葉>と<書き言葉>が共存しているが地域によっては<書き言葉>が存在していない国もある。たしかにそうかもしれない。しかも文字でいえば英語圏およびスペイン語、ドイツ語、イタリア語、デンマーク語など西洋諸国はすべてアルファベットで表記される。アジアでも独自の文字を持つのは中国、韓国、日本にタイぐらいか(漢字は輸入だがその使い方はオリジナルだしカタカナ、ひらがながある)。モンゴルにもあるらしい。それにアラビア文字、ロシア文字とか。国によっては国民意識の高まりによって無理矢理<書き言葉>を復活させたりあるいは新たに創りだした国もある(イスラエルとかね)。それにしても民族がすべて独自の国を持つわけではなく、その国においても国語、現地語、地域語、複数の公用語、と様々な言葉を持つ。単一言語しかない日本はなんと恵まれた(?)国であろうか。
で、英語である。世界で普遍語といえば英語である。どんなに立派な思想書や論文を発表してもそれが日本語のままならばそれは単なる一地域のものでしかないが、
それが英語で書かれていれば世界的になる(とはいえ日本語で書かれていても優れたものなら英語に翻訳されると思うが)。英語の他の言語に対する圧倒的な優位性。しかもその優位性に対して英語母語者は無自覚である(そりゃそうだろう、自分がいかに恵まれてるかなんて落ちた境遇になってみないとわからない)。英語以外の言語がその存続を危ぶまれている。しかもインターネットの普及がそれに益々拍車をかける。グローバル化が進んだ現在英語を学んでいれば事足りる状況であるのだから。
この時代になぜ日本語を学ぶのか。著者は現代において優れた日本文学がないということが存続危機の理由のひとつであるという、きわめて文学者的な分析をする。優れた文学がないから誰も日本語に関心をもたない。海外からももたれない(でもさ、確かに100年、200年後に残る本なんて自分が生まれてからこれまでで2,3冊だろうけど、そんなもんじゃないか。それよりも言葉は様々な形になって残るのではないか。ケータイ文学だってもしかしたら新しい文学の形かもしれないではないか)。
日本語を存続させるために英語エリートを作り出すべきという論旨がよくわからなかったし、日本(語)を国際化するために国語教育をもっと充実させるべき、というのもわかったようなわからないような。それが単純に授業時間を増やせばいいことでもないと思うし。最後の2章は語らなくても、と思ったりして(加藤典洋氏もそう書いていた)。言語は文化であるし日本の文化が水準を保っていれば日本語は亡びないのではなかろうか。
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめて新しき背広を着て
きままなる旅にいでてみた
(萩原朔太郎)
この「ふらんす」がさ「仏蘭西」でも「フランス」でもなく「ふらんす」でしかこの詩のニュアンスは伝わらない、だから翻訳不可能であるしそこに日本語の独自性がある、ということはわかる。「ふらんす」だからこそ明治の時代人の浪漫へのあこがれが感じられる。でもさ、敢えていうなら、結局それだけの内容なのではないか。英語にそのニュアンスは訳せない。文字のニュアンスにそもそも萩原朔太郎は頼ろうとしたのか?だからさ、結局翻訳文学(たがいの)を読む意味があるのだろうか、原書は原書で読まざるを得ないのではないか、という自分のいつも疑問に立ち返ってしまう。もちろんヘミングウエイとかさ
フィッツジェラルドなら原書で読もうとも思うけどドストエフスキは無理だ。内容もさることながら今更ロシア語を学ぼうとは思わない。
副題が「英語の世紀の中で」とあったので自分はてっきり英語翻訳によって日本語が変化していることを憂えた本かと最初思いました。とにかく翻訳文は読みにくいし、「〜という印象を引き起こした」のようなそんな日本語の使い方しないだろう直訳すればそうなるだろうけどという表現が跋扈しているので。
でもそうではなくもっと深く真に日本語が亡びることを憂えている内容でした。
面白かったですよ。著者が採り上げていたベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」、それに
夏目漱石、谷崎潤一郎、はあらためて読んでみようと思います。
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