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2008年12月

2008年12月 9日 (火)

ジョン・レノンが死んだ日

ジョンの命日は12月8日で日本でもこの日に追悼イベントが行われたり、ラジオでたくさんジョンの曲が流れたり
する。でも彼が死んだのはニューヨーク時間の8日夜11時半過ぎ。だとするなら日本は9日であり、
日本での命日は12月9日とすべきではないかと思う。実際亡くなった日よりも先行して、ニューヨークよりも
前に追悼するのは変じゃないか?

で、ジョンレノンが死んだのは1980年だから自分が高校2年生の時だった。
冬の期末試験の真っ最中で
その日は2つか3つ試験をこなした後、家に帰り2階の自分の部屋に閉じこもって翌日の試験の予習をしたりレコードを聴いたり寝たりしていた。
 気分転換に下りてきたら妹が「お兄ちゃん、ビートルズの誰かが死んだらしいよ」と教えてくれた。それを最初聞いたとき僕はそれほどあわてなかった。
妹に返した言葉は「ああ、リンゴだろ。多分。」リンゴ・スターと彼の家族には申し訳ないのだが、勝手にリンゴだと思ってしまったのだ。そのころたまたま雑誌で見た彼の顔がひげだらけで薄汚れた感じを受けたのと、彼のビバリーヒルズの家が焼けたというニュースを前に聞いていたのが頭で結びついて、それで死ぬ理由は全然ないのだが、うらぶれたリンゴ・スターの顔が頭に浮かんで勝手にそう思ってしまった。
 それから直に自分にとっての第一報を聞いたのはラジオからだったか、テレビのニュースだったか。よく覚えていない。しかしその衝撃はものすごかった。
(今ならあっという間にネットで流れるのだろうが、その頃はニュース番組が始まるまで待たねばならなかった。)
うそだろう、と思った。ジョンが死んだ、しかも射殺。テレビからはジョンの映像が繰り返し流れ、ニュースはその死を報じている。ジョンにとっては5年ぶりに音楽活動を再開した直後だったので、最新の映像に乏しく、5年前のアルバム「rock’n roll」からのプロモーションフィルムが多く流れた(SLIPPIN’ AND SLIDIN’とか)。それもちょっと違和感があった。rock’n rollは文字通り彼が十代の頃に影響を受けたロックをまとめた、回帰的なアルバムであったから代表的なジョンではない。最新のダブル・ファンタジーのプロモはその時まだ間に合ってなかったのかよくはわからない(セントラルパークを歩くジョンとヨーコが印象的なPVの「WOMAN」は死後数ヶ月してからのシングルカットだからね)。

明日はまた試験があるのにそれから僕は予習どころではなくなった。ジョンが殺されたという事実をどう頭の中で整理していいかわからなかった。自分が大好きな、尊敬しているジョンが殺されたというのに、勉強という自分本位の行動をするのは不謹慎だと感じて、試験の予習をやめた。自分なりの服喪。それでも時間が来るとお腹がすく自分を情けなく思った。
テレビのニュースを追いかけそれが終わるとラジオに聞き入った。
オールナイトニッポンを始め各ラジオが急遽ジョン・レノン追悼特集をくんで繰り返しジョンのソロのレコード、ビートルズ時代の曲を流した。
それはCOME TOGETHER だったが、久しぶりにターンテーブルにのせたせいだろう、針がとんで同じフレーズを繰り返したりして、しまらなかった。
なんと世の中は間抜けなんだろう。
しまらないのにDJとゲストは無理矢理神妙な声を出すものだから。
なかには追悼の意を込めてといってYESTERDAYがリクエストされそれをまんまDJが流してしまったりして
腹がたったのと、ラジオという音楽を重視しているメディアでさえビートルズやジョンのことをあまり知らないことに失望した。

高校生というのは世の中に対して漠然とした不安を持っている時期だ。
妙に厭世的になったり絶望したりしてしまう。自分もそんな若僧のひとりだったのだが、ジョンは僕にとってそんな絶望的な世界の唯一の希望だった。
彼がいれば安心、彼がなにかいってくれればそれを指針にいきていける、そんな気分だった。まさにキリストのような存在だったのだ。
そんなジョンが死んだ。なぜジョンなのだ。なぜビートルズの中で一番好きなジョンなのだ(これは裏返せば他の誰かだったら良かったのに、ということになってしまうが、決してそうではなくなぜジョンが、という気持ちだった)

期末試験はなんとか赤点をとらずに済んだ。
以後、日がたつにつれ数々のテレビ番組で音楽関係者、評論家、さまざまひとたちが登場してジョンのことを語った。なにひとつ胸をうつようなコメントはなかった。ジョンの(オノ・ヨーコの)親族という女性がワイドショーで「ジョンおじさん」と呼んでいたことが新鮮だった。ジョンに日本人の親戚がいるということ。考えてみれば確かにそうだ。

2年後大学に合格して僕は待望の東京生活を始めた。
そこで渋谷のエッグマンの追討イベントに行ったりしたのだが
長くなったのでこの話はまた来年のジョンの命日に。

2008年12月 8日 (月)

市川準さんのお別れ会が椿山荘で行われた

先日、市川準さんのお別れ会が椿山荘で行われた。
ご家族の間で行われた密葬は遠慮したのでこれが自分にとって市川さんとの最後のお別れである。
出席者が1000人と聞いたがそれ以上来ていたのではないだろうか。

会場正面には花に囲まれて市川さんの写真が飾ってあった。広川泰士さんが撮られたという。素敵な笑顔の写真だ。確かに市川さんはこんな風にいつも笑いかけてくれた。不意をつかれてしまい思わず涙がこみあげてくる。写真の前に遺骨が置かれており、市川さんの死が現実であることを実感する。
いつでも会えると思っていたので積極的に連絡もしていなかったのが悔やまれる。でも亡くなられる2,3週間前に思いがけず市川さんと偶然会ったのだ。コンビニの袋をぶら下げてあの猫背のスタイルで前を歩いていた。そこで少し話をすることができた。そして「じゃあ、また、今度ゆっくりと」と言って別れたのが最後である。だってまた会えると思ったからね。

「僕の映画はあたらなくてねえ」が、市川さんの口癖だった。しかしそれはグチではなくでもそのスタイルを自分はやり続ける、という柔らかな決意のような自信のようなものだった気がする。
CMであれだけおかしいものを作っているのに映画になるとアンチエンターテインメントに徹し、しんみりと静かなトーンに変わる。
「あたる映画を作ればいいのに(なぜ作らない?)。」と僕は不満だった。もっと一般ウケする映画をいつでも作れるのに。でもそれは間違っていた。楽しい映画は誰でも作れる。市川さんの映画は市川準しか作り得ないオリジナルであり、それは見ている人に深い思いをいつまでも抱かせる映像だったのだ。もう市川さんの映画は見られない。日本映画界にとっても大きな損失だと思う。
そらぞらしくなくリアルに人の美しさ、さもしさ、いやらしさ、愛しさ、そのような心情を描いた映画監督は今いない。

市川さん、僕はもう少しこの世で頑張ってみます。いつか自分の携わった映画を持ってあの世でお見せできたらと思います。その時市川さんは何と言うでしょう。ニヤニヤ笑いながら「君もやっと撮ったんだねえ」とでも仰るのでしょうか。
しばし、さようなら。またいつかお会いしましょう。

2008年12月 4日 (木)

銀座でSASUKEを見た

夕方、銀座を新橋方面に向かっていたら向こうから覆面をかぶったスーツ姿の体格のいい男が颯爽と歩いてきた。Images1

一瞬呆気に取られたがプロレスラーで岩手県県会議員のザ・グレート・サスケであることに気がつく。公務の途中なのかダレス型のような鞄をさげていた。夕暮れ時の銀座をスーツを着こなした覆面野郎が歩いている姿はかなり異様。マスクをかぶっているから目立つのであって、かぶらなければ誰だかわからないのだからかぶらなきゃいいのに、と勝手に思う。自分を明かさないためにマスクをしたはずが逆に自分が誰であるかを周囲にさらしているという皮肉。

 で、ネットで調べたら既に議員は辞めていたんだね。スーツを着ていたのは商談のためかな。入浴以外は一切覆面をはずさない、ということなので、はずせばいいのにと思ったのは余計なお節介でした。普通には歩きたくないんだね。
でも覆面したまま銀行に行くんだろうか、お金を降ろすときはどうするんだろう? 行かないんだろうな、銀行には。飛行機はどうするんだ?乗らないんだろうな、多分。

2008年12月 2日 (火)

「未来を写した子供たち」 Born into Brothels

インドのカルカッタの売春街に暮らす子供たち。祖母、母と代々娼婦の家だったり、父親がアヘン中毒で家は売春街にやってきた客に酒を出す商売をしていたり、と周囲はとにかく売春に関する商売に携わっている。将来は親と同じようにこの街で娼婦かヒモになるしかない、そんな絶望的な環境。
 将来に夢を持つことなど不可能な子供たちに、女性写真家ザナ・ブリスキはカメラを与えて写真撮影を教える。写真によって世の中に希望があることを子供たちは知る。ザナは子供たちの撮った写真を使ってニューヨークなどの都市で展覧会を開き、世間の関心を引き寄せるとともに彼らが学校へ通うための資金を集めることを試みる。
 なかでもアヴィジット少年は写真の才能を認められ、アムステルダムの写真展に招待される。アヴィジットは母親の死にショックを受け一時写真に対して興味を失いかけたが、ザナは彼のパスポートを取得するために奔走する。前近代的なシステムの中煩雑で絶望的に遅い役所のペーパーワークに悩ませながらもなんとか彼のパスポートは発行される。アヴィジットはアムステルダムでつかの間他国の子供たちと交流を深める。

慈善団体の協力もあってアヴィジットも含めて何人かの子供たちは全寮制の学校へ通うことができた。子供が手元を離れることを嫌い親から入学を認められなかったこどもいる。
映画は最後子供たちのその後について簡単に述べている。3人で仲良く入学した少女たちだったがそのうち2人はすでに退学している。アヴィジットは進学した。ある子は娼婦街で暮らしながらの進学を目指し、ある子は親の反対で学校に通えず、ある子は親の手元におかれおそらく娼婦になる。

アカデミー賞のドキュメンタリー部門を受賞した映画。ザナの活動と子供たちの状況をカメラは静かにしかししっかりと追っている。
BRICsの一国として経済の発展がめざましいインドのある一つの現実。そして場所はたまたまインドのカルカッタ(コルカタ)ではあるが、同じような境遇の子供たちは世界中にいる。世界中の子供をすべては救えないが、今目の前にいる子だけにでも希望は与えたい。慈善活動とはそういうものなのかもしれなれ。
月並みな言い方だが、子供に罪はない。それを痛感する。しかしその親たちもかつては子供で同じような境遇だったはずだ。だとすると親にも罪はない。
ちなみに映画の中で才能を認められたアヴィジット君は今ニューヨークの大学(!)に進学したということが後日のエピソードとして監督がインタビュー時に語っている。
将来の希望は映画監督になることだという。Mv5bmty0nzc4ndewnl5bml5banbnxkftztc

2008年12月 1日 (月)

僕らの未来へ逆回転 Be Kind Rewind

ニュー・ジャージーの小さな町パセーイクのビデオレンタル屋で働いているマイクはある日
オーナー(ダニー・グローバー)から旅に出るのでしばらく店を任せると告げられる。そのビデオ屋にはDVDが置いてなくて、VHSだけを1回1ドルでレンタルしている、まさにほんとうのビデオ屋だった。
マイクにはジェリーという友人がいて廃品回収業を営んでいるが、日頃から電磁波が町に悪影響を与えているという妄想に取り憑かれている。ある日ジェリーは変電所を破壊しようと侵入を試みるがその時に大量の電磁波を体に帯びてしまう。
そんな体のままジェリーはビデオ店内に入ってしまったものだから電磁波によってすべてのビデオの中身が消えてしまった。

店長不在の間にとんでもない事態になったマイクはあわてる。ゴーストバスターズを借りにきた客(ミア・ファーロー)には夕方までに用意すると言ってとりあえず帰すが解決策が見あたらない。ジェリーの発案で自分たちで撮影すればいい、どうせ客は内容などわからないのだから、という強引な提案に渋々マイクは従う。自ら出演してビデオカメラでゴーストバスターズを撮影し始める。図書館のシーンではクリスマスの飾りを幽霊にみたて、段ボールで作ったニューヨークの摩天楼の中でマシュマロマンが泡だらけになる。
 恐る恐る貸し出したビデオはなぜか、地域の人々に大ウケしてしまった。顧客からは「ラッシュ・アワー2」「ロボコップ」「ドライビング・ミス・デイジー」のリメイクの発注が次から次へと舞い込む。大忙しでリメイク作りに励むジェリーとマイク。

ビデオ屋は区画整理で新しいマンションを建設するために市から立ち退きを迫られていたのだが、オーナーは経営を見直すために実はライバル店を偵察していた。
 DVD屋として出直すつもりで帰ってきたオーナーは店のあまりの繁盛ぶりに驚く。リメイクを待つ客で店の前は長蛇の列だったのだ。これで建物を買い取り立ち退きしなくても済むと希望を見出すオーナー始めマイク達だったが、そううまくはいかなかった。あまりの店の繁盛ぶりを聞きつけたFBIが著作権侵害の法律違反として即刻リメイクビデオの破棄と業務停止を命じたのだ。(懲役と莫大な損害賠償も告げられたがそれはどうやら避けられたようだ)。
ローラーで粉砕されるビデオ(違法コピーの時計を廃棄するときのような映像)。意気消沈するマイク、ジェリー、オーナーそしてビデオの愛好者たち。
 消滅するしかないダニーのビデオ店。最後に店員、顧客総出演で地元出身のジャズ・プレーヤー、ファットの映画を作って店内で上映する。屋外から聞こえる歓声におそるおそる外に出てみると、黒山の人だかり。窓に幕をかけて映写した映像は外からもばっちり見えていて、それを観るためにたくさんの人々が集まっていたのだ。
まるで映画の原点のような光景がそこにあった。

ミシェル・ゴンドリーの映画はキャラクターの行動に対して説得力に欠けるところがあって、クビをかしげざるを得ないようなシーンも多々あるのだがその不安定さも含めて彼の映画の魅力なのだと思う。
登場人物達はほとんどが現代の社会にうまく適合できない敗者たちばかりだ。
そもそも舞台となるNew Jersey自体が敗者と言えなくもない。New Yorkのとなり。東京における埼玉(埼玉の皆さん、すいません)?。そういえばトッド・ソロンツの”Happiness”もNew Jerseyが舞台だった。負け犬が似合う街New Jersey。素敵じゃないか。
結果としては現在のハリウッド大作ムービーへの痛烈なアンチテーゼとなったが、
ミシェルは始めから特に高邁な批判精神を持ってこの映画を作ったのではないと思うのだ(今でも本人はそうだと思う)。単にダメ男達がチープなリメイクムービーを撮るというおばかムービーを撮りたかっただけなのだ。ただその動機があまりに純粋で普遍であったからテーマが格調高いところまで昇華していった。ミシェル自身が演じているトレーラー(予告編)をぜひ観て欲しい。バカを本気でやるすばらしさと美しさ。かなわない。

名作というには何かが足りない、しかし足りないところが魅力になっている映画である。皮肉ではない。愛すべき佳作だ。ぜひ観て欲しい。

しかしこの邦題「僕らの未来へ逆回転」はなんとかならんものか。配給会社が考えたのか。それともどこかの
広告代理店に頼んだのか。チケットを買うときにタイトルを言うのが恥ずかしい。知り合いに「昨日ミシェルゴンドリーの映画見たよ、題名は『僕らの未来へ・・・』」なんて言いたくないなあ。

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