映画・テレビ

2009年5月31日 (日)

グラン・トリノ

3b82653b481265e0a81a76616f500c7f、有楽町で観る。公開から1ヶ月が立つが平日にもかかわらず客席は5割以上埋まっている。中年以上の観客が目立つ。口コミの影響だろう。いい映画はたとえ宣伝費を掛けなくても人がはいる(もちろんこの映画は通常並に宣伝量をかけただろうが)。

すばらしい。
今でもこの映画のシーンを思い浮かべると涙があふれてくる。

脚本がよくできている。完璧だ。
頑固一徹な老人が近所に引っ越してきた移民と交流していく中で徐々に彼らと心が通じ始める。
移民の少年は老人から男としてのあり方を学び、老人にとっては少年を訓練することによって再び自分の人生に活力が戻ってくる。老人は少年にとって父であり師でありヒーローであった。

少年を大人へと成長させるその訓練はまるでロバート・B・パーカーの「初秋」や映画「カラテ・キッド」を彷彿させる。しかしそこはクリント・イーストウッドである。ハートウオーミングでは終わらない。彼には怒りと暴力と血がつきまとう。しかしそれだからこそ物語はリアルなのだ。
 とにかく脚本は教科書のようにすばらしい。たいがいそのようなホンは出来すぎでかえって臭い映画になってしまうものだが、クリント・イーストウッドであるが故に気にならない。ダイアローグもいい。まるで落語である。人情話と言えなくもない。でもそれだけでは終わらない、お手本のような脚本。
有名俳優はクリント・イーストウッド以外いない。しかも主要キャストは米国社会に住む少数民族。それでも話が面白ければ、お客は映画を観に来る。

 ウォルト老人は妻を亡くし一人で暮らしている。独立していった子供たちとは心は通わない。口から出ることばは怒りか皮肉。若いときに朝鮮戦争で朝鮮人を殺した記憶が頭から離れない。
 近隣はスラム化が進み裕福な白人たちは街を出て行った。代わりに移住してきたのが低所得者だが最近勢力を伸ばしているアジア人たちである。気がつくと周りはアジア人だらけとなっている。苦々しい思いのするウォルト。
 ある晩、隣のタオ少年が不良グループからの命令で彼の大事にしている名車グラン・トリノを盗もうとして見つかってしまう。失敗したタオを不良たちは再び無理矢理グループに入れようとする。彼らを銃で脅し追い払うウォルト。ウォルトは近隣のアジア人から感謝される。
タオ少年は窃盗の償いと不良を撃退してくれた謝意としてウォルトの手伝いを
始める。当初は拒否したウォルトだがやがて少年の面倒を見始める。ウォルトとモン族の一家に温かな交流が生まれる。しかし一方で不良たちはおとなしくなったわけではなかった。彼らとの抗争に決着をつけるためにウォルトが取った選択とは・・・。

 この映画には様々な人種が登場する。アジアの少数民族モンを始め、主人公ウォルトはポーランド系アメリカ人であり、なじみの床屋はイタリア系、建設現場の監督はアイリッシュそして黒人、ラティーノ、・・・米国は白人と黒人だけの国ではないことが浮き彫りにされる。
主人公の心の傷、信ずるところ、それらがすべてラストへと集約されていく。
早くも今年ベスト5には入る一本。私はまったく主人公ウォルトに共感してしまったのだ。まるで自分の将来の姿(ヒーローではなく孤独な老人として)を見るようだ。だからこそ彼のような見事な生き様を送りたいと思う。
 この映画は米国の現実を生と死という普遍性の中で表現した見事な作品である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月16日 (金)

ダークナイトのすごさ


Images1
映画の冒頭から映像がキレイだなとは思ったのだ。ビルの屋上シーンもなぜか他の映画よりも恐怖を感じたのだ。IMAXだったとは。普通ストーリー映画をIMAXで撮ろうなんて思わないよ。でもその圧倒的映像体験を観客が堪能することを信じて推し進めたクリストファー・ノーランの監督力はたいしたもんだ。
それを支持したプロデューサーたちも度胸がある(恐らく当初は反対しただろうけどね)。普通はですねパニックものアクションものは特殊効果にお金をかけてカメラ機材まで気もお金もまわらない。すぐHD撮影を選択してしまう。しかし高画質の映像というのも実は特殊効果の重要な要素だったんだな、とこのメイキングを見て参考になった。
製作費は1億8000万ドル、ざっくり換算して180億円あるとはいえねえ、見事に予算を使いこなしたのではないか。

クリストファー・ノーランはCGを多用しない。実写の方が圧倒的に観客に訴える力があると確信している。
確かにそうなのだ。しかし現在の映画製作においては予算的にも爆破や巨大建造物、群衆など特撮が困難なものはすぐにCG制作を選択しがちである。予算を抑えて映像化可能とするCGは確かに近年の映像製作においては不可欠な要素だがやはり実写にはかなわない。クリストファー・ノーランがイギリス人ということもその実写志向に関係しているような気がする。意外にイギリス人は物作りが得意である。ミニチュアなどつくらせると上手いもんだ。ロータスやMBなどバックヤードビルダーの伝統があるのかもしれないな。

そしてスタッフワークのすばらしさ。
市街地でのカーチェイスや爆破は入念なテストと複数のスタッフとの正確な連携がなければ成功しない。そして絶対に失敗しないためのシミュレーションが必要とされる。
万が一事故が起きれば二度と撮影に貸してくれなくなるからだ。一つのチームが起こした不祥事はどんどんロケの選択肢を狭めていってしまう。
しかしトレーラーを横じゃなくて縦に倒してしまうんだからね。横転じゃなくて縦転なんである。
これをやり遂げてしまうスタッフのオペレーション能力は非常に高い。
日本人スタッフはここまでの大規模撮影など慣れてないから多分無理だ(もともと日本人の特質として大きく拡げるよりも小さく、けど細やかなものが得意である。脱線するがこの辺の話は「縮み志向の日本人」を読むと納得できる)。

ヒース・レジャーのジョーカーは確かに素晴らしかった。しかし彼を映し出すIMAXの映像と、彼を活かす画像を創造したクリストファー・ノーランが彼の演技をより際だたせ、彼が受ける評価に貢献している。役者を生かすも殺すも結局監督次第。演出、撮影、美術、演技、その他もろもろのスタッフワークがからみあって画面にその結果が映し出される。だから映画作りはやめられない。

クリストファー・ノーラン監督で「ブレード・ランナー」をリメイクしてくれないだろうか。ものすごく見たい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 8日 (月)

市川準さんのお別れ会が椿山荘で行われた

先日、市川準さんのお別れ会が椿山荘で行われた。
ご家族の間で行われた密葬は遠慮したのでこれが自分にとって市川さんとの最後のお別れである。
出席者が1000人と聞いたがそれ以上来ていたのではないだろうか。

会場正面には花に囲まれて市川さんの写真が飾ってあった。広川泰士さんが撮られたという。素敵な笑顔の写真だ。確かに市川さんはこんな風にいつも笑いかけてくれた。不意をつかれてしまい思わず涙がこみあげてくる。写真の前に遺骨が置かれており、市川さんの死が現実であることを実感する。
いつでも会えると思っていたので積極的に連絡もしていなかったのが悔やまれる。でも亡くなられる2,3週間前に思いがけず市川さんと偶然会ったのだ。コンビニの袋をぶら下げてあの猫背のスタイルで前を歩いていた。そこで少し話をすることができた。そして「じゃあ、また、今度ゆっくりと」と言って別れたのが最後である。だってまた会えると思ったからね。

「僕の映画はあたらなくてねえ」が、市川さんの口癖だった。しかしそれはグチではなくでもそのスタイルを自分はやり続ける、という柔らかな決意のような自信のようなものだった気がする。
CMであれだけおかしいものを作っているのに映画になるとアンチエンターテインメントに徹し、しんみりと静かなトーンに変わる。
「あたる映画を作ればいいのに(なぜ作らない?)。」と僕は不満だった。もっと一般ウケする映画をいつでも作れるのに。でもそれは間違っていた。楽しい映画は誰でも作れる。市川さんの映画は市川準しか作り得ないオリジナルであり、それは見ている人に深い思いをいつまでも抱かせる映像だったのだ。もう市川さんの映画は見られない。日本映画界にとっても大きな損失だと思う。
そらぞらしくなくリアルに人の美しさ、さもしさ、いやらしさ、愛しさ、そのような心情を描いた映画監督は今いない。

市川さん、僕はもう少しこの世で頑張ってみます。いつか自分の携わった映画を持ってあの世でお見せできたらと思います。その時市川さんは何と言うでしょう。ニヤニヤ笑いながら「君もやっと撮ったんだねえ」とでも仰るのでしょうか。
しばし、さようなら。またいつかお会いしましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 2日 (火)

「未来を写した子供たち」 Born into Brothels

インドのカルカッタの売春街に暮らす子供たち。祖母、母と代々娼婦の家だったり、父親がアヘン中毒で家は売春街にやってきた客に酒を出す商売をしていたり、と周囲はとにかく売春に関する商売に携わっている。将来は親と同じようにこの街で娼婦かヒモになるしかない、そんな絶望的な環境。
 将来に夢を持つことなど不可能な子供たちに、女性写真家ザナ・ブリスキはカメラを与えて写真撮影を教える。写真によって世の中に希望があることを子供たちは知る。ザナは子供たちの撮った写真を使ってニューヨークなどの都市で展覧会を開き、世間の関心を引き寄せるとともに彼らが学校へ通うための資金を集めることを試みる。
 なかでもアヴィジット少年は写真の才能を認められ、アムステルダムの写真展に招待される。アヴィジットは母親の死にショックを受け一時写真に対して興味を失いかけたが、ザナは彼のパスポートを取得するために奔走する。前近代的なシステムの中煩雑で絶望的に遅い役所のペーパーワークに悩ませながらもなんとか彼のパスポートは発行される。アヴィジットはアムステルダムでつかの間他国の子供たちと交流を深める。

慈善団体の協力もあってアヴィジットも含めて何人かの子供たちは全寮制の学校へ通うことができた。子供が手元を離れることを嫌い親から入学を認められなかったこどもいる。
映画は最後子供たちのその後について簡単に述べている。3人で仲良く入学した少女たちだったがそのうち2人はすでに退学している。アヴィジットは進学した。ある子は娼婦街で暮らしながらの進学を目指し、ある子は親の反対で学校に通えず、ある子は親の手元におかれおそらく娼婦になる。

アカデミー賞のドキュメンタリー部門を受賞した映画。ザナの活動と子供たちの状況をカメラは静かにしかししっかりと追っている。
BRICsの一国として経済の発展がめざましいインドのある一つの現実。そして場所はたまたまインドのカルカッタ(コルカタ)ではあるが、同じような境遇の子供たちは世界中にいる。世界中の子供をすべては救えないが、今目の前にいる子だけにでも希望は与えたい。慈善活動とはそういうものなのかもしれなれ。
月並みな言い方だが、子供に罪はない。それを痛感する。しかしその親たちもかつては子供で同じような境遇だったはずだ。だとすると親にも罪はない。
ちなみに映画の中で才能を認められたアヴィジット君は今ニューヨークの大学(!)に進学したということが後日のエピソードとして監督がインタビュー時に語っている。
将来の希望は映画監督になることだという。Mv5bmty0nzc4ndewnl5bml5banbnxkftztc

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 1日 (月)

僕らの未来へ逆回転 Be Kind Rewind

ニュー・ジャージーの小さな町パセーイクのビデオレンタル屋で働いているマイクはある日
オーナー(ダニー・グローバー)から旅に出るのでしばらく店を任せると告げられる。そのビデオ屋にはDVDが置いてなくて、VHSだけを1回1ドルでレンタルしている、まさにほんとうのビデオ屋だった。
マイクにはジェリーという友人がいて廃品回収業を営んでいるが、日頃から電磁波が町に悪影響を与えているという妄想に取り憑かれている。ある日ジェリーは変電所を破壊しようと侵入を試みるがその時に大量の電磁波を体に帯びてしまう。
そんな体のままジェリーはビデオ店内に入ってしまったものだから電磁波によってすべてのビデオの中身が消えてしまった。

店長不在の間にとんでもない事態になったマイクはあわてる。ゴーストバスターズを借りにきた客(ミア・ファーロー)には夕方までに用意すると言ってとりあえず帰すが解決策が見あたらない。ジェリーの発案で自分たちで撮影すればいい、どうせ客は内容などわからないのだから、という強引な提案に渋々マイクは従う。自ら出演してビデオカメラでゴーストバスターズを撮影し始める。図書館のシーンではクリスマスの飾りを幽霊にみたて、段ボールで作ったニューヨークの摩天楼の中でマシュマロマンが泡だらけになる。
 恐る恐る貸し出したビデオはなぜか、地域の人々に大ウケしてしまった。顧客からは「ラッシュ・アワー2」「ロボコップ」「ドライビング・ミス・デイジー」のリメイクの発注が次から次へと舞い込む。大忙しでリメイク作りに励むジェリーとマイク。

ビデオ屋は区画整理で新しいマンションを建設するために市から立ち退きを迫られていたのだが、オーナーは経営を見直すために実はライバル店を偵察していた。
 DVD屋として出直すつもりで帰ってきたオーナーは店のあまりの繁盛ぶりに驚く。リメイクを待つ客で店の前は長蛇の列だったのだ。これで建物を買い取り立ち退きしなくても済むと希望を見出すオーナー始めマイク達だったが、そううまくはいかなかった。あまりの店の繁盛ぶりを聞きつけたFBIが著作権侵害の法律違反として即刻リメイクビデオの破棄と業務停止を命じたのだ。(懲役と莫大な損害賠償も告げられたがそれはどうやら避けられたようだ)。
ローラーで粉砕されるビデオ(違法コピーの時計を廃棄するときのような映像)。意気消沈するマイク、ジェリー、オーナーそしてビデオの愛好者たち。
 消滅するしかないダニーのビデオ店。最後に店員、顧客総出演で地元出身のジャズ・プレーヤー、ファットの映画を作って店内で上映する。屋外から聞こえる歓声におそるおそる外に出てみると、黒山の人だかり。窓に幕をかけて映写した映像は外からもばっちり見えていて、それを観るためにたくさんの人々が集まっていたのだ。
まるで映画の原点のような光景がそこにあった。

ミシェル・ゴンドリーの映画はキャラクターの行動に対して説得力に欠けるところがあって、クビをかしげざるを得ないようなシーンも多々あるのだがその不安定さも含めて彼の映画の魅力なのだと思う。
登場人物達はほとんどが現代の社会にうまく適合できない敗者たちばかりだ。
そもそも舞台となるNew Jersey自体が敗者と言えなくもない。New Yorkのとなり。東京における埼玉(埼玉の皆さん、すいません)?。そういえばトッド・ソロンツの”Happiness”もNew Jerseyが舞台だった。負け犬が似合う街New Jersey。素敵じゃないか。
結果としては現在のハリウッド大作ムービーへの痛烈なアンチテーゼとなったが、
ミシェルは始めから特に高邁な批判精神を持ってこの映画を作ったのではないと思うのだ(今でも本人はそうだと思う)。単にダメ男達がチープなリメイクムービーを撮るというおばかムービーを撮りたかっただけなのだ。ただその動機があまりに純粋で普遍であったからテーマが格調高いところまで昇華していった。ミシェル自身が演じているトレーラー(予告編)をぜひ観て欲しい。バカを本気でやるすばらしさと美しさ。かなわない。

名作というには何かが足りない、しかし足りないところが魅力になっている映画である。皮肉ではない。愛すべき佳作だ。ぜひ観て欲しい。

しかしこの邦題「僕らの未来へ逆回転」はなんとかならんものか。配給会社が考えたのか。それともどこかの
広告代理店に頼んだのか。チケットを買うときにタイトルを言うのが恥ずかしい。知り合いに「昨日ミシェルゴンドリーの映画見たよ、題名は『僕らの未来へ・・・』」なんて言いたくないなあ。

Images

| | コメント (0) | トラックバック (0)